2008年6月17日

京都カフェめぐり(2)〜川床スタバ


京都カフェめぐりの2店目。これはもう有名かもしれません。


30年を経てふたたび……岩手・宮城地震に思う

東北地震:岩手、宮城で震度6強、2人が死亡

埼玉も震度は低かったものの結構揺れた。速報が出て震源が宮城・岩手とわかるととっさに携帯に手が伸びていた。僕の実家は仙台。母親、兄、親類のほとんど。友人も多い。思わずそういう人々の顔が浮かぶとともに、過去の体験が蘇ってきた。

いまからちょうど30年前、『宮城県沖地震(正式には1978年宮城県沖地震)』が起きた。今回の地震がマグニチュード7.2という事だが、宮城県沖地震はマグニチュード7.4。これが60万都市(当時)の仙台を直撃した。

建築基準法を変える要因にもなった、ブロック塀の倒壊による下敷きでなくなった方は18名、数千戸の家屋が全半壊した。ライフラインのほとんども閉ざされた。電気、水道、電話が一週間ストップし、ガスが全復旧するまでは一月近くかかり、不便な生活を余儀なくされた。比べ物にもならないが、阪神淡路の悲劇が起きるまで、宮城沖は都市災害のモデルケースとされた。

学生だった僕は、発生当時、学校帰りの電車待ちで駅ビル地下にある改札前の噴水広場にいた。はじめ、下から唸るような響きがしたと思ったら、突き上げるような衝撃があり、飛び跳ねるように立ち上がった。そのすぐ後に強烈な横揺れが始まり、噴水の水がお皿にはった水のように、噴水から盛大にこぼれ始めると同時に、地下街の灯が一斉に落ち、あちこちから悲鳴が上がった。

噴水広場は右往左往する買い物客でパニックに陥った。その時、僕のすぐそばにいた中年男性が大声で「落ち着け! 階段だ! 階段から外に逃げろ!」と叫び、光の入ってくる階段を指し示した。手近にいた人々を階段に送ると、その男性は、小さな子ども二人の手をひき、赤ちゃんを背負ったお母さんから、こども一人を預かり抱えると、僕に向かって「あんちゃん、手伝え!」ともうひとりのこどもを僕に示した。思わず、僕はその大きな方の子(たぶん幼稚園児)を抱えると、無我夢中で階段を駆け上がった。火事場の糞力とはこういう事をいうのだろう。

階段を上がり終えた時には揺れはおさまっていた。ひと安心し、へたり込んでいるお母さんにこどもを預けると、目の前に見える駅前のロータリーに目をやった。すると駅前の交差点向こうにある映画館のビルから壁が崩れ落ちるのが見えた。うわああ、と目を奪われていると、今度は手前のビルの屋上から破裂(倒壊?)した給水塔から大量の水が吹き出してきていた。

放心状態で、ふらふらと駅舎から外に出ると、壁からレンガブロックが落ちてきて、僕の背後、すれすれに落ちた。このブロックは免れたが、一緒に落ちてきた小さな瓦礫が右足に直撃した。


心底、「(おれの人生は)終わった」と思った。


突然の出来事に考えるキャパを超えてしまったからか、一瞬、ぼやんとしていると、あちこちからうめき声が聞こえてくるのに気づいて我にかえった。

横でおばあさんが路上に座り込んでいた。くだんの中年男性は、すでに他の倒れ込んでいる人に手を差し伸べていた。まわりを見回すと、多くの人がその場に座り込み、中には具合悪そうにうずくまっている人もいた。吐瀉物もあちこちに……。僕もおばあさんの方に駆け寄ると、ちゃんと返事がかえってきた。特に怪我はないようで、どうも驚いてへたり込んでしまったようだった。

その時、サイレンを鳴らして、パトカーが交差点に入ってきて、警察官が出てくるとすぐに交通整理をはじめた。それまで動くのを止めていた自動車も動きだし、急に街の表情が地震前に巻き戻されたような錯覚に陥った。たぶん、地震が発生してから、ここまで長くて5分ほど。まるで悪夢のような5分間。これだけ、長く感じた5分はなかった。

改札に戻ると、噴水の水は8割ちかくがなくなっていて、大理石にひびがはいっていた。改札にいくと、電車が動いていない事がわかった(当たり前か)。電車をあきらめ、バスに乗ろうとバス乗り場に向かうが、歩道は満員電車のような人の波で、とても身動きが取れない。ビルからは時折、窓ガラスのかけらがふってくきて、それから逃げまどうハメになった。

仕方なく、駅に戻ると、動輪広場(以前、仙台駅前にはSLの動輪を設置した広場があった)に座り込んでしまった。それからしばらくは、西から東に扇状に広がる雲が茜色に染まるのをただ見つめていた。恐ろしく、神々しく、美しい空だったのをよく覚えている。

その後、結局、動かない電車をあきらめ、バスに乗るのもあきらめた。同じ方向に帰るともだちを見つけ、1時間弱の道のりを家まで歩いて帰った。家まで、あと数十メートルのところまで来ると、ブロック塀が何メートルにもわたって倒れているのを見た。急に足ががくがくしてきて、震えが止まらなかった。足も急に痛み出した。

すっかり日が暮れた夜道を歩き、ようやく家に着いた。さぞ家族が無事を喜ぶだろうと思ったら、母親は「大丈夫だった?」と暗い部屋の奥から声をかけると、続き様に「だめ!入っちゃだめ」と怒鳴った。分けもわからず、真っ暗な家の中に、靴のまま上がって合点がいった。部屋の中は、食器棚が倒れ、ガラスや食器のかけらが散乱したままだった。靴をスリッパに履き返る時に、瓦礫があたったところが、どす黒いあざになって腫れている事にようやく気づいた。

幸いにもウチは、都市ガスの工事が遅れていた場所で(なんと辻と辻の間のわずか数十メートルの一角だけがプロパン)、うちはガスが使えた。おかげで温かいお茶も飲めた。水道も2、3日で復旧したので、お風呂にもすぐに入る事ができた。ただ、電気だけは一週間以上、復旧しなかったため、毎晩、懐中電灯とラジオの生活が続いた。

あれから30年。幸いにも大きな災害にはあっていないが、いつ大きな地震が襲いかかるかもしれない、関東に住んでいる。今日の事は、また、備えを忘れた僕らへの警鐘としなければいけないだろう。

ところで、幸い、今日の地震で、仙台の家族も、親類も無事が確認できた。
仙台の友人、知人のみなさんの無事を信じ、一日も早い復旧を心から願っています。