2014年2月13日

いただきます、という思い

いまはこういう関わり方をあえてしないと、食といのちに接する事ができない不自由な時代なのかもしれません。




僕が子どもの頃はわりと生活圏の中で食肉を捌く場面に接することができたし、特に僕の場合、近所のおじさんが経営している食肉工場がすぐそばにあったので、鶏を捌くところは何度も見ていました。もちろん、そういう事に接していたからって、構えて “いのちをいただいている” なんて思いに至る事なんて、おとなになるまでなかったし。

雑誌BRUTUSが別冊で「悦楽的男の食卓」という本を(1985年ごろかな? すでに絶版で手元にあるはずの本が見つからず、体裁をお見せできないのが残念)出したのですが、この中にさまざまな野菜などの食材に混じって、じゃがいもだったか、人参だったかを置いて、目のところを隠した兎があったのを見て、「そうだよな、昔の人はこうやって狩りをして…」と思いながら、いまもやっている事は基本的に変らないんだよなぁ、と思ったのが最初だったと記憶しています。

どんな事がきっかけで食やいのちの大切さに接するかわからないものです。この記事の場合は自分で狩りをして捌く事で、食やいのちに接しているのだろうと思います。

先日、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」で『シングルマザーハンター』というドキュメントを見ました。趣味が高じて、女性としては数少ないプロの猟師になったシングルマザーと、高校受験を控えた一人娘を追った内容でした。

このドキュメントの優れたところは、鹿や猪といったけものをいただくという部分について、ことさらに特別に扱うのではなく、彼女たち家族の間ではごくごく当たり前の事としてとらえ、そこにフォーカスをするよりも、母が女でひとつで娘を育てる手だてとして命がけの仕事として狩猟を行っている事にフォーカスしていたことです。そうした環境で育った娘は母がけものを捌くのを当然のように手伝い、同時に保護した猪をペットとして可愛がっていました。

ちょっと普通の家族は違った生活を送っている親子ですが、丁寧に捌いた鹿肉がフレンチレストランにその仕事を信頼されて、一流の食材として扱われている事に接した娘が母親を尊敬したり、中学の卒業式は狩りの仕事で出席できないと思っていた母が、仕事を早く切り上げて、きちんとして母親として出席したり、と普通の親子の生活として、丁寧に追っているところが好感が持てました。

自分が必要だと思えば、狩りをして自分で捌いてみるのもいいし、自分の血肉になってくれたいきものに対して薄ぼんやりとした感情しかなくとも、コンビニ弁当でも「いただきます」と言って食べるだけで僕は十分だとも思います。いのちへの接し方はひとそれぞれでよいのだと。