2016年8月8日

これぞ本当のゴジラだ!いまこそ本腰を入れて観たい「ゴジラ」(1954)


『シン・ゴジラ』を傑作と思った人はぜひ1954年の原点に触れてほしい。これを古くさいとか、現代社会とは違うと思わずに見てほしい。これが本当の「ゴジラ」だ!

「ゴジラ」と「シン・ゴジラ」で明らかに共通する点が、ゴジラを徹底的に恐怖の対象として描いていることにあります。

「ゴジラ」では、ゴジラが東京にやってきて海に帰っていくルートを空襲で飛来してきたB29爆撃機ルートになぞらえたり、広島や長崎、福竜丸による被爆がゴジラの体表や造形で表現されるなど、ゴジラを戦争のメタファーとして描いています。「シン・ゴジラ」ではあきらかに福島原発事故の被爆体験から、ゴジラを暴走する原発そのもの、まさに動く原発として描いています。「ゴジラ」(1954)以後のゴジラシリーズでは一貫して、ゴジラ=原爆もしくは原発として描き続けられています。なにも「シン・ゴジラ」ではじまったことではないのです。

そして、「ゴジラ」と「シン・ゴジラ」の決定的に異なる視点が、ゴジラを生物(1954年当時は動物と言った方が近いか)として、見ている視点です。

映画の中では、ゴジラを人類や人類の営みを蹂躙する、恐怖、脅威の存在として捉えるのを大勢としながらも、山根博士をはじめ一部の人々はゴジラを生物として捉えています。

この視点は一見すると、科学者としての視点として見逃されがちですが、ゴジラが生物であり、その “いきもの” を人の一方的なエゴによって葬り去ることへの疑問だけではなく、映画の終盤では、海の藻屑と消えていくゴジラへの哀れみの感情が包み込み、戦争が引き起こす悲しみ、それ以上に命を弄ぶことへの怒りがないまぜになって、観客にどうしようもない涙を誘います。

そしてもう一点。自身の革命的な発明(オキシジェンデストロイヤー)をゴジラとともにこの世から消し去るために命を捧げる芹沢博士を通じて描かれる、科学技術を狂信することへの警鐘があることにあります。

この生命への姿勢、科学技術への姿勢が、残念ながら「シン・ゴジラ」では描ききれていないと思うのです。

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