子どもの頃からいまに至るまで「怪獣(KAIJU)」が好きです。アートが好きになったのも、もとを正せば、怪獣好きが要因のひとつです。
小学校に入る前後、僕の父は映画館の看板描きでした。そのころはよっぽどの田舎でも、繁華街をちょっと歩けば映画館があった時代でした。僕の住んでいた町にも自転車で10分やそこらに東宝系と松竹系の映画館がありました。記憶にないのですが、大映系もあったようです。
父が関係者ということもあって、招待券をもらったり、時には映写室に入って、そこから見せてもらう、なんてこともありました。「ふしぎの国のアリス」も「東海道中四谷怪談」も、映写室の窓から見た記憶があります。若大将も、ドリフも、クレイジーも映画館で見ました。もちろん、ゴジラも、ガメラも。僕にとって、クリエイティブとのファーストコンタクトは映画館でした。
そんな時代も思い起こしつつ、大好きな怪獣たちの思い出を綴ってみようと思います。もちろん、最新の怪獣たちについても書ければな、と。気まぐれで、01なんて付けたけど、いつまで続くやら。それどころか、次はいつ書くのやら。
『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』予告編より |
『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』(以下、ダイゴロウ対ゴリアス)にでてきた、ダイゴロウのために一肌脱ぐ発明おじさんが好きでした。その時はまったく意識してなかったけど、ワンちゃんことクレイジーキャッツの犬塚弘さんが演じていたのは、いま考えてみれば、ああ、そうか、といった感じ。当時、僕的にはドリフよりも、植木屋が好きだったし、クレイジーの方がイケてると思っていました。
「ダイゴロウ対ゴリアス」というのは、簡単に言えば、怪獣映画の姿を借りた人情喜劇みたいなもんです。
『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』(1972年/東宝)監督:飯島敏宏/出演者:三波伸介、犬塚弘ほか |
ダイゴロウって、6歳になる怪獣が主人公なんですが、この子はいわばみなしご。原潜の爆発だかで目覚めた母親怪獣が東京で暴れた末、人間に退治されてしまうんだけど、その後に赤ちゃん怪獣が残された。それがダイゴロウ。
この頃、漫画「子連れ狼」が人気で、主人公・拝一刀の息子・大五郎の名前を、いろんなキャラクターや商品に大五郎と名付けるのが流行っていたので、その影響のようです。もっとも、このダイゴロウもそうだとはどこにも言及されていないけど。
その子ども怪獣ダイゴロウは人間に飼育されていたんですが、あまりに大食いなもので、国家予算を圧迫するとかで、成長抑制剤を飲まされそうになります。そこで、子どもたちや、なにをやってもろくな発明ができない発明おじさん(犬塚弘)、大工の熊さん(三波伸介)らだめな大人たちがダイゴロウのエサのために一肌脱ごう!ということになります。そんな時、失敗続きの発明おじさんの新発明「瞬間雨降りミサイル」がなぜか「びっくり発明大ショック」で賞金を獲得します。
実はその成功は宇宙からやってきた凶暴な大星獣ゴリアスの影響とわかって話は急展開。ゴリアスに蹂躙される街を救うべく、駆り出されるダイゴロウ(人間って勝手だよね)。もっともこども怪獣が自分よりも大きく強いゴリアスにかなうわけもなく。そこで、母親譲りの高熱火炎をマスターするために、子どもたちやおじさんたちと猛特訓を開始します。さて、ダイゴロウとゴリアスの戦いの行方は?
『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』予告編より |
お腹ペコペコのダイゴロウ。 『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』予告編より |
ゴリアスとの対決はいかに? 『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』予告編より |
さらにそれから何十年も経って、まったく関係ないところからジャック・タチ監督のユロおじさん(「ぼくの叔父さん」に出てくるキャラクター)が好きになるのですが、さらにその後、「ダイゴロウ~」の飯島敏宏監督が、発明おじさんはユロおじさんを参考にした、と発言していたことを知って、妙に納得したことがありました。
この映画には犬塚さんの他に、当時人気絶頂だったコメディアンの三波伸介さんや、ウルトラマンや仮面ライダーに不可欠だった小林昭二さんが出ていて、演技面もとってもしっかりした娯楽作品になっています。
隠れた傑作と言える「ダイゴロウ対ゴリアス」ですが、このところの怪獣映画人気にも関わらず、映画館で見る機会はこれまで一度もありませんでした。映画専門チャンネルでもなかなか放送されない(数年前に放送されたようですが…)のが残念ですが、アマゾンプライムなら見ることができるようです。
昔の子どもたちの周りには、発明おじさんや熊さんのような、ダメ人間かもしれないけど、恵まれない子どもがいれば、ごはんをご馳走してくれたり、親がろくでなしなら、殴ってでも子どもを守ってくれたり、お節介だけど、人情に厚く、深い愛情を持った大人がたくさんいたものでした。
過去、地域社会が子どもを守り、育てた時代のようであれば、少なくとも、親が子どもを手に掛けるような、あってはならないことは防げたと思うのです。もちろん、いまでもそういう優しい大人はたくさんいるはずなのですが、簡単に他人を信じることができない社会になってしまったのは残念でなりません。
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